長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語(馮艶監督)

 26日(木)ユーロスペース最終回にて鑑賞。長江・三峡ダム建設に伴い、移住させられた農婦・秉愛を七年間に渡って追ったドキュメンタリー映画
 中盤、村の溜まり場のようなところに集まった村人たちが、土地の分配の仕方について激しく議論を戦わせる場面がある。この場面の音響処理が凄まじい。なぜ一斉に喋る人の中から、たった一人の声だけが指向性を持って我々の耳に届くのか。一番声が大きいものが勝つ、という、ただそれだけのことなのか。
字幕の都合として当然、複数の声の中からたった一人の言葉だけが選別され、字幕に翻訳される。それが、その場面で一番重要な意味を持つ言葉だからであろうか。いや、違う。皆それぞれ自分の人生の諸相において、生きるために切実な言葉を吐き出しているのだから。そこに優劣はなく、ただ声の大小があるだけだ。
この少し後の場面でも、秉愛の喋るすぐその傍らで、秉愛の夫が呂律の回らない舌で延々何事かを訴えている。しかし、その言葉はまったく字幕に訳されない。ただの愚痴や世迷い言のように響く。弱者の言葉には誰も耳を傾けてくれないということか。それも中国語を解さない私には皆目分からない。
しかし、何にカメラを向け、どの言葉を一番大きく響かせるのか、どんな音を足し、どんな音を排除するのか、膨大な撮影テープの中からどの素材を残し、後はすべて捨ててしまうのか、その判断をするのはすべて作家自身である。
無数にあり得た物語の中から、すべての可能性を棄却し、たった一つの物語を紡ぎ出すこと。そこに作家は自分の全存在を賭けねばならない。
作家の馮艶はそのとき、迷うことなく、ただひたすらにそっと秉愛に寄り添うことを選択する。背後に悠久の長江が流れる荒野で、そこに偶々あった石の上に座り、あるいは農作業の合間に畦道に足を投げ出し、秉愛が自らを語り出したとき、監督は敢えて質問をぶつけたりはせず、ただ透き通った声でわずかに合槌を打ち、話の続きを促すばかりである。
その声に触発され、滔々と喋り続ける秉愛の汗に光る横顔がただただ美しい。