『ゾディアック』(デビット・フィンチャー監督)

DVDで鑑賞。

150分超にわたる大作。しかし、まったくダレずに見た。
見過ごしにされがちだが、デビット・フィンチャーのよさはユーモアにあると思う。人が何人も殺されているのに、担当刑事たちはさして切迫感もなく、殺される犠牲者たちもどこか大らかである。犯人もボテッとした体つきで相手にまったく恐怖心を抱かせない。連続殺人鬼モノにありがちな犯行の一貫性や類似性もなく、やり通そうという熱意や集中力に欠けている。この作品がノンフィクション的な題材で、事実をありのままに示したが故かもしれないが、むしろフィンチャー特有のユーモアと私は捉えた。この弛緩した印象をユーモアではなく、単なる間延びした感じとしか受け取れないような人にはキツいのかもしれない。

そして、デビット・フィンチャーのもう一つのよさは“けれんみ”である。時間の経過を示すのに、高層ビルが建ち上がるさまをワンカットの超ハイスピード映像で見せたり、巨大な吊り橋を車で渡る様子を橋の真上から捉えた大俯瞰ショットで示したり、“時間経過”や”空間移動”という、本来ならサッとやり過ごすべきはずの”つなぎ”のショットに最大限の労力を払う。これぞデビット・フィンチャーの”粋”の精神と言わずして何と言おう。

この二つのよさを“よさ”と捉えるか、あるいは”こけおどし”や”逃げ”と捉えるかによって評価が二分するのだと思う。

しかし、私は彼のユーモアとけれんみが案外好きなのである。

『裏切り者』(ジェイムズ・グレイ監督)

ジェイムズ・グレイは、きわめて優れた脚本家であると同時に、それを映像として的確に具現化することを弁えた優秀な監督である。同時にこの二つであることは難しい。

冒頭、1年4ヶ月の刑期を終えたレオ(マイケル・ウォルバーグ)が刑務所から出所してくるところから始まる。それがレオの乗った地下鉄がトンネルを潜り抜け、明るい地上に出てくるワンショットに象徴される。「暗」から「明」へーこの主題がほぼ全編を覆い尽くしている。まず、刑務所が「暗」であることは言うまでもない。そこから外界へと出てきたレオは、まだ外気に触れることに慣れないのか、すぐには明るい日の光の下へと身を曝そうとはしない。出所したレオを陽気に出迎えるのは親友のウィリー(ホアキン・フェニックス)である。レオは車泥棒の罪で捕まったとき、一緒に犯行現場に居合わせたウィリーを密告せず一人で罪を被った。そのことがどこか心の暗部となってレオの心を塞いでいる。そして、レオが心を寄せる従妹エレン(シャリーズ・セロン)は、レオの服役中にウィリーとの親密度を急速に深めていた。
叔父フランク(ジェームズ・カーン)の経営する会社に勤めることになったレオはそこでウィリーの仕事を手伝うことになる。ウィリーの仕事は言わば汚れ役である。公共工事受注に絡み役員に賄賂を手渡したり、相手企業に対する妨害工作のためにチンピラを抱え込んだりしている。メキシコ系であるウィリーが白人社会でのし上がるためにはそうした仕事に手を染めるしかなかった。そして、ライバル企業を出し抜くために、地下鉄の操車場で妨害工作に及ぼうとしたときにまた悲劇を繰り返す。ウィリーは誤って人を殺し、見張りに立っていたレオは駆け付けた警察官に暴行し、危篤状態に陥らせてしまう。そのときにしっかりと顔を見られてしまう。レオは愚図でノロマなのだ。

意識を取り戻した警察官は早速レオの仕業と言い当てる。一人殺人の罪まで被ることになるレオ。その疑惑は叔父のフランクにまで波及し、果ては市長まで巻き込んだ大規模な汚職事件へと発展する。レオの身柄を巡って、警察とフランク側で争いが繰り広げられる。フランク側は揉み消しのために、警察よりも先にレオを始末し、口封じをしてしまおうという腹だ。その密命が親友であるウィリーに下される。マイノリティであるが故に、恋人エレンとの婚約にエレンの母親から難色を示され、さらにフランクからかつてレオとエレンに関係があったことを知らされたウィリーは火を付けられる。そもそも、ウィリーは自分の仕事に忠実なだけで、ヘマをしたレオに落ち度がある。レオを葬ることは親友に対する裏切りでなく、単に闇社会の掟を遂行するまでだ。道理は通っている。片やレオは自分の疑いを解き、ようやく手に入れた愛する母(フェイ・ダナウェイ)との生活を取り戻そうと暗中模索する。そう、まさに暗中模索だ。
レオは暗がりから暗がりへと身を沈める。逃亡先から母親のいるアパートに舞い戻ったとき、階段の暗がりの奥でエレンとウィリーの遣り取りをじっと見守っている。あるいは、路上でエレンを呼び止めたときも、闇に半身を浸して己の明度を微調整する。エレンの手引きで叔父のフランクと密会した場でも、決して警戒を緩めず、闇の陰にわずかに輪郭を浮かび上がらせるのみである。

そして終盤、レオが我が身を守るため、母を守るため、白日のもとに堂々と身を曝す瞬間が訪れる。この瞬間にこれまでの演出が賭けられていたと言って過言でない。“もう騙されるのはご免だ”。そうはっきりと口にしたレオは以降、姿勢を正し、常に明るい場所へと身を曝していく。顔を上げ、公衆の面前を大胆に闊歩する。命を狙われているレオにとって、それが唯一の自衛手段なのだ。
一方でウィリーはエレンとの不調に端を発し、一気に転落していく。この顛末は予期せぬ悲劇を辿ることになる。ここにも、“明”と“暗”の分かれ目がはっきりと描かれているのだ。

マイケル・ウォルバーグとホアキン・フェニックスのコンビはこの後、ジェームズ・グレイの次作『アンダーカヴァー』へと引き継がれている。父親役のロバート・デュバルを加え、文句なき傑作に仕上がっている。

長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語(馮艶監督)

 26日(木)ユーロスペース最終回にて鑑賞。長江・三峡ダム建設に伴い、移住させられた農婦・秉愛を七年間に渡って追ったドキュメンタリー映画
 中盤、村の溜まり場のようなところに集まった村人たちが、土地の分配の仕方について激しく議論を戦わせる場面がある。この場面の音響処理が凄まじい。なぜ一斉に喋る人の中から、たった一人の声だけが指向性を持って我々の耳に届くのか。一番声が大きいものが勝つ、という、ただそれだけのことなのか。
字幕の都合として当然、複数の声の中からたった一人の言葉だけが選別され、字幕に翻訳される。それが、その場面で一番重要な意味を持つ言葉だからであろうか。いや、違う。皆それぞれ自分の人生の諸相において、生きるために切実な言葉を吐き出しているのだから。そこに優劣はなく、ただ声の大小があるだけだ。
この少し後の場面でも、秉愛の喋るすぐその傍らで、秉愛の夫が呂律の回らない舌で延々何事かを訴えている。しかし、その言葉はまったく字幕に訳されない。ただの愚痴や世迷い言のように響く。弱者の言葉には誰も耳を傾けてくれないということか。それも中国語を解さない私には皆目分からない。
しかし、何にカメラを向け、どの言葉を一番大きく響かせるのか、どんな音を足し、どんな音を排除するのか、膨大な撮影テープの中からどの素材を残し、後はすべて捨ててしまうのか、その判断をするのはすべて作家自身である。
無数にあり得た物語の中から、すべての可能性を棄却し、たった一つの物語を紡ぎ出すこと。そこに作家は自分の全存在を賭けねばならない。
作家の馮艶はそのとき、迷うことなく、ただひたすらにそっと秉愛に寄り添うことを選択する。背後に悠久の長江が流れる荒野で、そこに偶々あった石の上に座り、あるいは農作業の合間に畦道に足を投げ出し、秉愛が自らを語り出したとき、監督は敢えて質問をぶつけたりはせず、ただ透き通った声でわずかに合槌を打ち、話の続きを促すばかりである。
その声に触発され、滔々と喋り続ける秉愛の汗に光る横顔がただただ美しい。

『スワンプウォーター』(ジャン・ルノワール監督)

DVDにて鑑賞。
ジャン・ルノワール監督が戦火のパリを逃れ、ハリウッドに渡って撮った作品。ジャン・ルノワールという固有名で我々が記憶している“らしさ”はそのフィルムのどこにも刻印されていない。仮に監督名を伏せられ、見た後で言い当てろと言われても、よほどの慧眼の主でもまずもって不可能なのではないか。裏返せば、初めてジャン・ルノワールの映画を見る人はこの作品はまったくふさわしくないとも言える。
作品全体としては、ラオール・ウォルシュの『遠い太鼓』、ジム・ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』とも通底するような湿地帯での撮影が見ものである。オケフェノキー湿原という場所で実際に撮影が行われたという説明が劇中でも為されるが、スタジオに大規模な湿原を作って行ったのではないかという印象を抱く。
ホークス映画でお馴染みの名脇役ウォルター・ブレナンの好演が光るが、作劇的にも伝統的なハリウッドの紋切り型を踏襲しており、そこにジャン・ルノワール自身が持ち込んだものは全くないと言っても過言でない。
例示として適当かどうか分からないが、北野武における『Brother』といった位置づけか。要するに中途半端なのである。

『青髭八人目の妻』(エルンスト・ルビッチ監督)

 こちらもDVDで何度目かの鑑賞。
『生活の設計』と同様、ゲーリー・クーパーが出演。エドワード・E・ホートンという俳優も出ており、『生活の設計』ではヒロイン・ジルダを愛する、結局当て馬のようにされてしまう広告代理店社長の役を演じていたが、こちらではヒロイン・ニコル(クローデット・コルベール)の父親の何とも狡猾なのだが、どこか憎めないロワゼル侯爵役を好演している。ルビッチの映画(ひいてはハリウッド映画全体だが)はこうした名脇役がきっちりと要所を締めてくれるから頼もしい。
そしてルビッチ・タッチの代名詞とも言える扉がここでも大活躍し、大富豪のゲーリー・クーパーの邸宅は扉をいくつも開け閉めしないと妻・ニコルの部屋に辿り着けないわけだが、ときに扉の向こうでは浮気相手との密会が演じられていたり、あるいは、仲違いした旦那を拒むためにしっかりと鍵が閉ざされていたりする。
そして終盤、ゲーリー・クーパーの収容された精神病院の玄関の扉は迎えに現われたニコルの入室をあっさり拒絶する。そんな扉はルビッチの映画では鍵を使ったり、ドアをノックしたりといった正攻法では決して開かない。ただ簡単な呪文一つを唱えるだけで十分なのである。ワン!ワン!ワン!
この魔法の言葉の秘密を知りたければ是非ともご覧あれ。
最良とは言い難いが、ルビッチ映画の真髄を知るにはもってこいの佳作。

ジャンプカットについて

最近の映画でしばしばジャンプカットという手法をよく目にするになった。ジャンプカットとはウィキペディアによると、「画面の連続性を無視して、カットを繋ぎ合わせること」ごくと簡単な説明がなされている。
私個人の理解では、同一カットを途中で抓んで、急に時間やアクションが飛んだような印象を与える編集のことである。たとえば、画面奥から手前に向かって歩いてくる人物がいたとしたら、ジャンプカットを使うと急にポンと手前に瞬間移動したような感じになる。
これによってどういった効果がもたらされるかと言うと、まずは驚きや違和感、テンポのよさといったところか。ところで、この手法が最近またよく使われるようになったのは、一つにミュージッククリップやYouTubeによる短い映像の氾濫にあるだろう。観客はパソコンのクリックによってザッピングすることに慣れ、これが既に視聴者自身の手になるジャンプカットという編集とも言える。視聴者はあまりに長いカットや持続感を伴う映像を見ることに耐えられなくなりつつあるのだ。
また、デジタルメディアの普及によってパソコンによる映像編集が極めて容易で身近なものとなった。カット&ペーストにも似た編集操作は、フィルムをハサミで切り貼りするという、ある種物理的な痛みと労苦を伴う作業からは遠く隔たり、パソコン上のほんのわずかな操作で達成されてしまう。一つのカットを短く寸断し並べていくという作業はいとも容易く、元に戻すのも数クリックだ。つまりはトライ&エラーの試行錯誤がいくらでも可能だということだ。かつては高価なフィルムを途中で断ち切るなどまさに身を切る思いであったろうし、一度切り刻んだフィルム片がどこかに紛れて永久に見失われる恐れとも戦わねばならなかった。
しかし、今ではパソコンがクラッシュしない限り、デジタル映像はいくらでも切ったり伸ばしたり、拡大再生産が可能なのだ。これぞまさに複製芸術時代の終着点とも言うべき様相であろう。
さてさて、こうして俄かに到来したジャンプカット時代は、映画の物語に如何に奉仕しているのであろうか。一つに速さというものがあろう。今や映画製作者たちは一つの古典的な物語を語るに留まるを許されない。たとえば一人の伝記的人物の生涯を描くなら、その成長から栄枯盛衰、さらにその先の子子孫孫の物語まで語ることを今では求められる。
かつてなら一つの大団円であり得たはずの結末を最初の一時間で迎え、さらにその先の一時間で観客の見たこともない地平まで話を運ぶことを余儀なくされる。結果、映画は140分、160分とどんどん長大化していく。こうした現状にあって、ジャンプカットというのは物語をダイジェスト的に語ることに大いに奉仕していると言える。
しかし、ではジャンプカットの本分は速さのみに奉仕するのかと言うと、そうではない。かつてゴダールが『勝手にしやがれ』で発明したと半ば伝説化されるように、ジャンプカットにはそれだけでは汲み尽せぬ価値があるだろう。それはカットカットに呼び込まれる新たな生の息吹、躍動感、一回性といったものや、まさに映画独自の言語化し得ぬものであろう。そういったことをゴダールフィリップ・ガレルの映画が我々に教えてくれる。

『生活の設計』(エルンスト・ルビッチ監督)

 ルビッチの『生活の設計』をDVDで再見。
ルビッチの映画を称して艶笑喜劇、ソフィスティケーティッド・コメディなる謂われ方がするが、そもそもこの言葉の意味って何だろうか。艶笑喜劇、艶っぽい笑い?ソフィスティケーティッド・コメディ、洗練された笑い?
要するに露骨な表現は避けて、敢えて遠回しに言ってみたり、隠語で囁いてみたりする上流階級的な笑いということか。その実、大人の男女ならば思わずニタリと笑ってしまわざるを得ない、強烈な性的ニュアンスや下品すれすれのセックス表現が随所に散りばめられている。当時のハリウッドの規制を掻い潜って繰り出される彼のセリフや省略、小道具の使い方はある意味、大胆な性的描写や露出シーンよりもやらしい。   
ルビッチ・タッチの代名詞とも言える扉が閉まるシーンでは、その向こうで必ず何かが起こる。進退窮まった人物が短い銃声とともに自殺を演じてみたり、あるいは寝室における大人の秘め事を匂わせたり。その向こうで起きた出来事は観客の目から遠ざけられ、扉が開いて出てきた人物の事後的な表情やアクション、気の利いた台詞の一言で端的に表現される。
翌朝、男女が親密な雰囲気で仲睦まじげに朝食を共にしたり、大の男ががっくりと肩を落として姿を現せたり、たかだか一夜の首尾顛末が成就したか否かがこの世の重大事かのように取り沙汰される。
冒頭、それぞれ画家と劇作家を志すトム(ゲーリー・クーパー)とジョージ(フレデリック・マーチ)が偶々列車で乗り合わせたジルダ(ミリアム・ホプキンス)と知り合い、二人ともたちまち彼女の虜となる。ジルダはジルダで二人同時に愛し、どちらか一方を選ぶことができない。結局、共同生活を選んだこの三人が結んだのが紳士協定、すなわち“No Sex”の誓いである。ご推察の通り、この協定がたちどころに反故にされるからおかしい。それぞれの留守中にあっさりと自ら率先して立てた誓いを破り、陥落してしまうジルダの居直りっぷりが潔い。
個人的にルビッチでは『ニノチカ』や『生きるべきが死ぬべきか』、『天国は待ってくれる』のほうが好みだが、これはこれで付け入る隙のない秀作であろう。