『生活の設計』(エルンスト・ルビッチ監督)

 ルビッチの『生活の設計』をDVDで再見。
ルビッチの映画を称して艶笑喜劇、ソフィスティケーティッド・コメディなる謂われ方がするが、そもそもこの言葉の意味って何だろうか。艶笑喜劇、艶っぽい笑い?ソフィスティケーティッド・コメディ、洗練された笑い?
要するに露骨な表現は避けて、敢えて遠回しに言ってみたり、隠語で囁いてみたりする上流階級的な笑いということか。その実、大人の男女ならば思わずニタリと笑ってしまわざるを得ない、強烈な性的ニュアンスや下品すれすれのセックス表現が随所に散りばめられている。当時のハリウッドの規制を掻い潜って繰り出される彼のセリフや省略、小道具の使い方はある意味、大胆な性的描写や露出シーンよりもやらしい。   
ルビッチ・タッチの代名詞とも言える扉が閉まるシーンでは、その向こうで必ず何かが起こる。進退窮まった人物が短い銃声とともに自殺を演じてみたり、あるいは寝室における大人の秘め事を匂わせたり。その向こうで起きた出来事は観客の目から遠ざけられ、扉が開いて出てきた人物の事後的な表情やアクション、気の利いた台詞の一言で端的に表現される。
翌朝、男女が親密な雰囲気で仲睦まじげに朝食を共にしたり、大の男ががっくりと肩を落として姿を現せたり、たかだか一夜の首尾顛末が成就したか否かがこの世の重大事かのように取り沙汰される。
冒頭、それぞれ画家と劇作家を志すトム(ゲーリー・クーパー)とジョージ(フレデリック・マーチ)が偶々列車で乗り合わせたジルダ(ミリアム・ホプキンス)と知り合い、二人ともたちまち彼女の虜となる。ジルダはジルダで二人同時に愛し、どちらか一方を選ぶことができない。結局、共同生活を選んだこの三人が結んだのが紳士協定、すなわち“No Sex”の誓いである。ご推察の通り、この協定がたちどころに反故にされるからおかしい。それぞれの留守中にあっさりと自ら率先して立てた誓いを破り、陥落してしまうジルダの居直りっぷりが潔い。
個人的にルビッチでは『ニノチカ』や『生きるべきが死ぬべきか』、『天国は待ってくれる』のほうが好みだが、これはこれで付け入る隙のない秀作であろう。