ジャンプカットについて

最近の映画でしばしばジャンプカットという手法をよく目にするになった。ジャンプカットとはウィキペディアによると、「画面の連続性を無視して、カットを繋ぎ合わせること」ごくと簡単な説明がなされている。
私個人の理解では、同一カットを途中で抓んで、急に時間やアクションが飛んだような印象を与える編集のことである。たとえば、画面奥から手前に向かって歩いてくる人物がいたとしたら、ジャンプカットを使うと急にポンと手前に瞬間移動したような感じになる。
これによってどういった効果がもたらされるかと言うと、まずは驚きや違和感、テンポのよさといったところか。ところで、この手法が最近またよく使われるようになったのは、一つにミュージッククリップやYouTubeによる短い映像の氾濫にあるだろう。観客はパソコンのクリックによってザッピングすることに慣れ、これが既に視聴者自身の手になるジャンプカットという編集とも言える。視聴者はあまりに長いカットや持続感を伴う映像を見ることに耐えられなくなりつつあるのだ。
また、デジタルメディアの普及によってパソコンによる映像編集が極めて容易で身近なものとなった。カット&ペーストにも似た編集操作は、フィルムをハサミで切り貼りするという、ある種物理的な痛みと労苦を伴う作業からは遠く隔たり、パソコン上のほんのわずかな操作で達成されてしまう。一つのカットを短く寸断し並べていくという作業はいとも容易く、元に戻すのも数クリックだ。つまりはトライ&エラーの試行錯誤がいくらでも可能だということだ。かつては高価なフィルムを途中で断ち切るなどまさに身を切る思いであったろうし、一度切り刻んだフィルム片がどこかに紛れて永久に見失われる恐れとも戦わねばならなかった。
しかし、今ではパソコンがクラッシュしない限り、デジタル映像はいくらでも切ったり伸ばしたり、拡大再生産が可能なのだ。これぞまさに複製芸術時代の終着点とも言うべき様相であろう。
さてさて、こうして俄かに到来したジャンプカット時代は、映画の物語に如何に奉仕しているのであろうか。一つに速さというものがあろう。今や映画製作者たちは一つの古典的な物語を語るに留まるを許されない。たとえば一人の伝記的人物の生涯を描くなら、その成長から栄枯盛衰、さらにその先の子子孫孫の物語まで語ることを今では求められる。
かつてなら一つの大団円であり得たはずの結末を最初の一時間で迎え、さらにその先の一時間で観客の見たこともない地平まで話を運ぶことを余儀なくされる。結果、映画は140分、160分とどんどん長大化していく。こうした現状にあって、ジャンプカットというのは物語をダイジェスト的に語ることに大いに奉仕していると言える。
しかし、ではジャンプカットの本分は速さのみに奉仕するのかと言うと、そうではない。かつてゴダールが『勝手にしやがれ』で発明したと半ば伝説化されるように、ジャンプカットにはそれだけでは汲み尽せぬ価値があるだろう。それはカットカットに呼び込まれる新たな生の息吹、躍動感、一回性といったものや、まさに映画独自の言語化し得ぬものであろう。そういったことをゴダールフィリップ・ガレルの映画が我々に教えてくれる。