『石の来歴』(奥泉光)

奥泉光氏の『石の来歴』、『三つ目の鯰』を読了。

非常に密度の濃い読書体験であった。

ここ最近、奥泉氏の著作を固め読みすることにして『バナールな現象』、『モーダルな事象』と続き三冊目に表題作『石の来歴』と『三つ目の鯰』、二つの中編を所収するこの本を読んだのだが、どうやら奥泉氏は作品ごとに文体や作風を変えているようだ。

正確にフィルモグラフィを辿ったわけではないのだが、比較的初期に類する『石の来歴』、『三つ目の鯰』は作家本来の欲望に抗い、正統に徹している感がある。その自制心がいい意味で揺るぎない強度を生んでいる印象を受けた。

その正統性を買われたのか『石の来歴』が芥川賞受賞作となっている。

その点、幾度となく候補に上りながら選に漏れ続けた島田雅彦氏と好対照である。奥泉氏を優等生とするなら、島田氏は落第生とも言うべきか。島田氏がマゾヒスティックな自意識過剰を決めポーズに、硬軟取り混ぜたレトリックで意図的に道化を演じてみせるなら、奥泉氏は適切な時期に適切な作をものし、自分のフィルモグラフィを着実かつ戦略的に形作っている節がある。とは言え、選考委員の鼻先でわざとらしく道化の身振りを演じてみせる島田氏が、その落第生ぶりを自らのパフォーマンスに仕立て上げている時点で十分戦略的であると言えるのだが。

根本的に奥泉氏はユーモラスのひとなのであろうが、『石の来歴』の中にはそうしたユーモアの萌芽を必死に抑え付け、透徹な文体に徹しているところが可笑しい。

実は十年前に奥泉氏の朗読会を拝見したことがある。
それは大学2年生の折に出席した授業で、学生が企画し、毎回ゲストを呼ぶという方式で養老孟司氏、CMプランナーの佐藤雅彦氏らが訪れ、その何度目かのゲストで訪れたのが奥泉氏であった。(ちなみに今でも覚えている養老氏の言葉は、“人間の体で一番役に立たない部位は男の乳首”である。)

奥泉氏は自作の朗読を約30分ばかり滑舌よく繰り広げ、その合間にフルート演奏をまで織り交ぜてくださった。今思えば非常にサービス精神旺盛な方である。(どこか三谷幸喜を想起させる。)

そして、十年経ってようやく奥泉氏の著作に触れた。

面白い。その一語に尽きる。

調べると何と今日(もう12時を回っているので昨日だが)、2月6日は奥泉氏の53歳の誕生日であった。